大天井岳・常念岳縦走(回顧山行)

藤井 諭

 19731230日朝、私達奥多摩山岳会の冬山合宿隊16名は中房川第5発電所から東天井岳北東尾根に取り付いた。夏の偵察で付けた赤布を頼りに交代でラッセルを繰り返しながら登り、この日は1560m地点の広い場所にテントを設営した。翌日は交代でラッセルしながら2160mまで荷物を上げ、初日のテント場に戻った。1974年の年が明け、互いに「明けましておめでとう」の挨拶をして出発する。高度を上げると雪が締まってきたためワカンからアイゼンに履き替え、東天井岳を望む2160mのテント場まで登った。12日はいよいよ登頂日、樹林帯を抜けると急坂となり東天井岳へ到達する。天気は良好で、ここから大天井岳への縦走路となる。雪は強風で吹き飛ばされ、地面が出ている。12時ちょうどに大天井岳山頂に立つ。正面に聳える槍ヶ岳と左に穂高連峰、縦走路を振り返ると常念岳、飽きることなく1時間を山頂で写真撮影、食事を作り談笑して過ごす。この日は東天井岳に設営したテント場まで戻り、上高地から蝶ケ岳、常念岳を越えて来た3名の縦走隊と合流した。翌朝は、対面して聳える穂高連峰が赤く染まった。寒風の中テントをたたみ、19名全員が揃う大部隊で、一気に第5発電所まで下った。手ごろな場所を見つけ幕営して大宴会を行い、14日に有明駅からJRに乗り東京に帰った。

 

 20115月、38年ぶりに大天井岳2922mの回顧山行をすることにした。とは言っても極地法ルートに選んだ東天井岳北東尾根は通常の登山道ではないため、中房温泉から燕岳経由で登ることとした。また、朝ドラで今話題の常念岳も合わせて縦走する計画とした。前夜は中房温泉に宿泊する。アルカリ泉ですべすべするすばらしい湯で、ほとんど貸し切り状態の温泉を夜2箇所、朝2箇所と4箇所も梯子した。混浴で女性と一緒になりドキッとしたりもした。

52日は雨が上がり、残雪の合戦尾根を登ると、所々で登山者の列となる。合戦小屋を過ぎると、大天井岳とその稜線が広がりその上に槍ヶ岳が頭を出した。12時半に燕山荘に着き、受付を済ませて荷物を置き燕岳へ出発する。テント場はカラフルなテントが並び賑わっていた。燕岳山頂からは餓鬼岳がりっぱに見えた。風が強く寒いため山頂は短時間で燕山荘に引き返した。夕食では燕山荘社長の赤沼健至氏による登山のアドバイスと本場仕込みのアルプホルンの演奏があった。

 53日は日の出ショーで一日が始まった。450分に太陽が顔を出すと、燕岳の東側の雪面がピンクに染まった。そして西に聳える水晶岳、鷲羽岳、槍ヶ岳、穂高岳と次々にバラ色に変って行った。

620分に燕山荘を出発する。今日は曇りだが風がなく縦走には良い条件だ。縦走路に入ると急に登山者が減った。蛙岩(げえろいわ)には冬ルートがあったが、その通過点はスラブ状の岩で鎖も梯子なく、意を決して跳び降りた。大下りから見る槍ヶ岳は白く輝きひときわ美しい。2699mピークを越えるといよいよ本日の核心部である大天井岳の登りにかかる。この時期は雪崩の危険があるため夏道を使うことは禁止されており、尾根沿いに直登するルートしかない。頂上直下の急斜面は一気に落ちて見え、アイゼンをきかせピッケルを深く差して慎重に一歩一歩登る。万一に備え滑落停止を頭の中でシミュレーションする。1050分に大天井岳山頂に立ち、対面する水晶岳〜槍ヶ岳、穂高岳を堪能し写真を撮る。前後して登っていた若い男性と話をすると、島根県東出雲町の出身だと言われビックリ。長年アルプスに登り続けているが島根県人に出会い話をしたのは初めてだった。大天荘は冬季閉鎖中のため、小屋の近くの雪の溶けた岩場で一緒に昼食を摂る。彼は山の経歴は浅いが好きでたまらないようで、MHCの活動の紹介をしておいた。そしていよいよ回顧山行の核心部である東天井岳へ。この稜線を38年前に歩いた記憶を辿る。風は弱く天気は晴、聳える槍ヶ岳は雪のヒダに覆われて迫力があったことを思い出した。東天井岳を通過すると常念岳が近づくが、常念小屋はまだまだ遠い。やや歩き疲れながら横通岳を越え、下りにかかるとやっと常念小屋が見えてきた。小屋は2mを越える雪に覆われており、雪のトンネルを潜って1430分に玄関を入った。

 

54日、朝起きて2階の展望室へ上がって窓の外を見ると、槍ヶ岳は雲に覆われている。雪がぱらつき風も強く木が揺れている。昨日とは明らかに異なり、今日は好ましくないコンディションになりそうだ。予定は常念岳を越えて蝶ケ岳まで縦走し三股に下るルートであるが、縦走で強風に長時間吹かれるのは極めてよろしくない。状況を見て判断することとし、まずは常念岳山頂を目指す。登りは案の定、西からの強風で煽られる。時々ピッケルを使い3点確保をする。前常念岳の分岐を過ぎると最後の雪の斜面となり、810分に常念岳2857mに至った。槍ヶ岳は雲の中で蝶ケ岳への縦走路は霞んでよく見えない。また風が強く体が冷え、歩くコンディションは芳しくない。目的である写真撮影も視界が悪く期待できそうにないため、ここで下山することに決めた。再び常念小屋へと下り、携帯電話でタクシーを予約しておく。一の沢のルートへ入り、積雪1.5mはある雪の急斜面をアイゼンとピッケルを効かせて慎重に下る。転んだら一気に150mは行ってしまいそうだ。この急斜面でストックの登山者が何人かいたが、ストックでは滑落停止がきかず危険であり、ピッケルは必携である。沢筋に入るとデブリの跡が続いており、以前にこのあたりが雪崩の巣であったことを示している。下からは次々と登山者やスキーヤーが登ってきて、ここは人気コースであることがわかる。登山口のヒエ平には1310分に着いた。待ち合わせていたタクシーに乗り、予約しておいた豊科駅前のホテルに入る。

 

田淵行男記念館の見学は長年の夢であった。15時に身支度を整えホテルを出てタクシーで記念館へ行く。連休で国道は車が数珠つなぎの渋滞、大震災の自粛ムードはどこかへ行ってしまったように観光客が多い。さすが地元タクシー、田んぼの中の道を縫うように走りスムーズに記念館に着いた。館内へ入ると人は少なく静かで、外の喧騒はうそのよう。じっくりと時間をかけて安曇野の風景写真、蝶の標本、遺品の写真機器類、出版した多くの写真集を鑑賞した。田淵行男は鳥取県黒坂村の出身であるが、疎開してそのまま安曇野に住み着いた。そして山岳写真家、蝶の研究者として多くの写真集を残した。その中の1冊である「浅間・八ヶ岳」(朝日新聞社)が我が家にもある。私も山の写真をかじっている一人であるが、彼の山の写真を見るとこんな撮り方もあるのか、としばしば気づかされる。例えば山麓の生活風景を絶妙に取り入れている。何よりも彼の写真には、故郷の信州に対する深い愛情が感じられた。記念館を出ると、その向うには彼の愛した秀麗な常念岳が白く聳えていた。充実感を覚えながら、今回の回顧山行を終えた。