7月21日(日)車を置いた布部小学校は廃校だった。
登山口がわからず聞いた女性は鍛冶工房弘光氏の家屋だった。
弘光氏に頂いた資料によると、山中鹿之助は尼子勝久を立てて再興をはかり布部城で立ち上がった。
”布部山合戦”と呼ばれるこの戦いは激しく雪が血で染まったと言われる。
麓の興福寺周辺で尼子軍は300の死者を出して敗れ、山佐に落ち延びた。そして尼子再興の夢は消えた。
7月21日、駐車予定の交流センターは参議院選挙の最中だった。 のんびりコースは山頂まで30分、山頂直下に割石コースの分岐がある。 このコースは急坂で戻りの10分はきつかった。 山頂からは下の様子がよく見え砦に適している。 布部合戦に敗れた山中鹿之助はここに落ち延びたのか?
橋の手前に駐車スペースがある。のんびりコースは昔の車道である。
山頂直下で割石コースに分かれる。
下りはあずまやコースでちょうど一周するルートだった。
安来節で唄われる”とがみやま”だ。 中海の水運を統括する要として尼子と毛利で争奪戦が行われた山城である。 登山道は整備されていたが、十神山山頂の標識が草に埋もれていたのには失望した。 山頂からの展望もなかった。